ドリフターズ・サマースクールと2014年に向けて
――今日はよろしくお願いします。まず改めて、ドリフターズ・サマースクール(以下、DSS)を始めたきっかけから教えてください。
中村:そもそも私と金森、藤原でNPO法人ドリフターズ・インターナショナルを始めるきっかけからの話になってしまうのですが、その核が、那須で行ったスペクタクル・イン・ザ・ファームなんです。
スペクタクル・イン・ザ・ファームというプラットフォームは、藤原さんの関心である都市と創造性の関わりのことや、金森さんとファッションの演劇性とか日常性について共有したり、私はイベントを作るのがそもそもの仕事ですが、専門である演劇やダンスの領域を拡張して、色んなジャンルやより多くの観客と交流をしたい、ということを考える場となりました。3人の共通の関心事としてマッチして、実践できるフィールドだったんです。
それを運営していくときに、専門領域は違えども、オープンに同時代を開拓していくことを共有し、実践していく仲間が足りない、と思ったんです。未来を一緒に創っていけるような仲間に出会いという気持ちがありました。
こういうムーブメントを起こしていくために、他のジャンルと交流する意識で自分のクリエーションをしたいと思えるような人材がもっと必要だと思いました。私たちの周りにそういう人が沢山いれば、我々のやりたいことはムーブメントとして、大きくなっていくだろう、そのための仲間を作る場所をつくろう、そして、もっと状況を面白くしようという気持ちが、NPO法人の立ち上げ、さらにはDSSへと繋がりました。つまり、人と出会いたかったんですね。
藤原:ドリフターズ・インターナショナルを立ち上げて、さて何をしたいか、というプロジェクトリストの最初にスクールがあったと記憶しています。
ファッション、演劇、建築、それぞれのフィールドのワークショップを集めてくれば、新しいかたちのスクールになるんじゃないか、というアイデアでした。
更に、打ち合わせしている時に制作の分野にはワークショップが無いことに気づいて、ファッション、建築、ダンス、制作という4つのコースになりました。
化学反応を継続的に起こしていくというコンセプトがあって、まずはそれぞれのジャンルの知の伝達の枠組みを使いながら、という感じでした。
金森:サマースクールをとおして、受講生たちだけではなく、講師陣のジェネレーションでも、異分野間の交流がうまれることを目指しました。
藤原:そうでした!僕たちも新しい出会いの場がほしかったし、友達である講師たちにも色んな出会いを提供できたら、と思っていたんですよね。
――なぜ若い皆さんが次の世代への教育に関心を持ったのだろう?とずっと思っていたのですが、出会いが中心的なコンセプトだったんですね。
中村:私は当時の自分の置かれた現状に行き詰まりも感じていました。10年くらいキャリアがあって、これ以上、どう発展させるのかという時、自分が先にいかないと次の世代が育たない。私たちの考える環境の中で、若い人たちが活躍できる場を作れたら、と思っていました。
――宮村さんと仲野さんは、DSSが出来た時には理事ではなかったですよね。外から、DSSという活動を見ていて、どういった感想をお持ちでしたか。
仲野: DSSについて知ったとき、確か、私はまだ海外にいてインターネットで見たんだと思うんですが「誰でもスクールを作れるんだ」と思って、それがいいなと思いました。それまで、私は学校嫌いで、学校は行きたくない場所と思っていたけど、こういうスクールだったら行きたいなと思いました。
DSSのスタートまでの経緯についても、私は今日、初めて聴くことが多かったんだけど、スクールって仲間を作る場所だったんだ、と思いました。
宮村:僕は最初、「受講生募集のチラシを作って」と言われたのが、DSSを知ったきっかけでした。そのときに話を聞いて、若い才能を育てようという、なにか面白い事が始まるんだという印象がありました。そのまま制作の講師として携わることになったんですが、スクール終了後も受講生たちが記録として作るブックレットの作成とか、ドリマガでの活動などを通して、若い人たちとのものづくりの愉しさを実感できましたし、色んな面でこちらも刺激を受け勉強になるので、これからも受講生たちと密に繋がっていたいなと感じています。
――毎年、スクール自体のフォーマットも変化していたと思うのですが、その辺りには、どういった意図があったのでしょうか。
中村:1回実践すると、そのフォーマットに自分たちが飽きちゃうんですよね。(笑)
1期は先生たちが強いイニシアチブをとり、そこで活躍したい子達が集まりました。受講生にもっとつくる作品にプライドを持ってほしいという事でした。それで2年目はダンサーの山田うんさんと、建築家の中山英之さんを講師にお呼びして、こっちがフレームを決めず、受講生に投げてもらおうと思ったんです。創作プロセスにおいて一番活発な議論が生まれた年だと思います。それで発生したカオスは、みんな辛いけど面白いものが生まれたと感じました。
そこから、スクールとしては創作プロセスがとても重要、しかしお客さんにみてもらうからには最終発表もきちんと彼らの意識が表に出てくるような面白いものにしたい、というところで、さらに試行錯誤します。
それから、3年目は、最終的なアウトプットをダンスという形式にこだわらなくてもいいのでは、更には劇場じゃなくてもいいのでは、ということになって象の鼻テラスを成果発表の場にしたんですよね。
藤原:その上で、4年目は、これまでバージョンアップしたものを、さらに混ぜようとしてコース自体を無くしました。スクールのコンセプト自体が毎年変わっていっていた気がしますね。
――それぞれの期で印象深いことは何かありますか?
宮村:1期は天気予報士の森田正光さんのキックオフレクチャーが印象深かったです。
中村:熱かったね、最初の瞬間から。
宮村:ワークショップ会場の急な坂スタジオが、まだ畳の時期でしたね。
藤原:そのおかげか、寺子屋のような感じでした。特に、制作コースは、それぞれの受講生が企画を持ち寄る授業があったけれど、あれは印象深いです。
中村:ドリマガの編集にも携わっている玉木さんがググっと表情がきらきらし始めたのが印象的でした。もともと建築を学んでいて、制作コースに入ってきて、自分でものをつくるばかりではなく、グループ製作の面白さや、ひとつのものを作るときも色んな役割が必要だということを知れたのでしょう。ナイーブな感じの静かな少女だったけど、舞台監督をやりますと手を挙げて、最終公演目前に積極性を出し始めたんです。そこから、どんどん積極性が増したのは印象的でしたね。あと、照明の子。建築コース所属で、巡り巡って人生で初めて照明をやったのに、すごいセンスを発揮し始めて・・・。水を得た魚のようにイキイキし始めて、照明を操り始めたんですよね。
金森:けっこう奇跡があったね。
――2年目はいかがでしょう。
金森:うんさんが全コース合同授業の最初に踊った自己紹介ダンスが感動的でした。それぞれのアイデンティティをフラットに紹介する、という自己紹介というものを、たどたどしくも、力強いダンス表現にしていて、実際、わたしは泣きました。
中村:最初の全コース合同の授業の時、ファッションコースの子や、建築の子がダンスコースに入って一緒に踊ったりしていましたよね。あと、2年目は、受講生のひとりが言った「no direction」つまり「作品作りに参加する自分全員がフラットな環境でクリエーションができないか(ひとりの演出家や振付家が創作の頂点に立つようなヒエラルキーで創作するのではなく)という問いは、現在も有効なクエスチョンだと思います。
藤原:振り返ると2年目は「言葉の年」という感じがしますね。講師に刺激されてか、強い言葉や思想がいっぱいでてきた、その分議論や対立もたくさんあった。しかし、言葉と同時にスクール全体を貫くようにして、うんさんのダンスがずっと心に響いていたかな。
中村:本当に、60名で議論する熱気が生まれ、プロセスが充実していたと思います。
――続けて、3年目は。
中村:3年目は、キルトダンスというファッションブランドが誕生して、ファッションもプロダクトとして何かを発信していこうという気概がよかったと思います。
藤原:千駄木ダンスもあるし。批評性や言葉の強さというよりも、とにかくやってみたいんだという「やってみよう精神」がある年でした。「もの」や「こと」を生み出すピュアな喜びみたいなのが沢山感じられて、それが印象的です。
中村:その後もずっと継続して活動し続けているのがすごい。
――ここまでの3年間は、多少コース名や内容に変更があったものの、4つのコースがあるDSSでした。4年目はコースすらなく、受講生の数もぐっと減らしましたね。
中村:3年目までは、そうであれ、やっぱりコースで分かれて皆が議論する感じだったけど、4年目はそれぞれのバックグランド抜きに渾然一体としていた印象があります。そういう風に、色々言い合える仲間ができたのは素晴らしいと思っています。様々な角度から同時代をシェアできる仲間がいるのは羨ましいです。
宮村:受講生間だけじゃなくて、講師と受講生間の垣根もなくて全体が対等な関係だったと思います。森下スタジオでの授業のあとに、延長で飲んだり話をしたりする時間がとても多かった。参加している全員が他人事にしてなくて、きちんと自分の問題として捉えていた感じがします。
中村:少人数のなせる技ですね。
藤原: あとは、4年目にディレクションをお願いした篠田さんのクリエーションの整理の仕方、教え方が印象的でした。私が篠田に最初に依頼したとき「ジャンルなく集まる生徒がどのような思想を共有して、アイデアをつくるのか」にドリフとして興味があるという話をしたときに、篠田が「じゃあ、私はインプットと完成度を担保すればいいのね」とすぐなって、なんて頭の回転の速い人なんだろうと舌を巻きましたが、観察してみると篠田は、「コンセプト」と「アイデア」と「完成度」は別のものという捉え方をしていました。言い換えると、「概念・考え方」と「方法・具体的な」と「どう体験されるか」に分けている感じでした。これにはすごく感心しました。
スクールの進め方は、コンセプトやアイデアが生まれるまでのインプットと、アイデアが出てからのアウトプットとがぐちゃっと続いていて、生徒が常に前面に出ていて、講師は前半・後半でピりりと効いている感じ。
中村:篠田が全体的にコミットメントをしながら、飛田さんや、石川さんがインプットのトレーニングして、菅さんがアウトプットのトレーニングをしたという感じなのかなあ。もう一度試してみたい素晴らしい講師の皆さんのバランス感覚もありました。
――こうした4年間続いたDSSが終了した今、「枠組みを作る」「新しいムーブメントを起こす」といった目標を達成するための新たな活動として、何を考えているのか教えてください。
藤原:ずっとソフト的、枠組みば場所をつくる実験をしてきたのだけど、次は、物理的な場、具体的な拠点をつくるのが大切だなと思っています。
中村:日常的な積み上げを実感したいんですよね。
「イベント」として教育をするとか一時的なものではなく、日々の積み重ねから生まれた「開かれた場」が何を生むのか興味があります。「場」をもつ良さって、その「場」自体が変化していくことを、日々、可視化できますよね。スペクタクル・イン・ザ・ファームでやっていたような「街とどう関われるのか」を深くやりたいし、さらには発信する・交流するスペースとしてシンボリックな形を持つことが重要だと思っています。
藤原:この感覚的な変化には、3.11と原発事故が大きく影響していると思います。ドリフターズは「漂流者」という意味だから、もちろん偶発的な枠組みを創りだす運動体であり続けたいんですが、311以降は我々の生活の根底、基盤のようなものがすごく希薄化してしまって、不安がどこかある。「漂流者」がふらっと停泊できるような拠点をつくる必要性を強く感じています。
中村:私自身は、イベントを単発でやって、チケットを売ってさよなら、みたいな一時的なお客さんとの関係や、固定ファン、文化的な感覚の高い人たちだけに作品を提供する事に飽きているというのもあります。
より多くの人々の日常にカッティングエッジな感覚を提案していくことが必要だと思っていて、それをどう生活にコミットさせられるのかをやりたいです。常に新しい思考や驚きや発見に出会えるような場、そこで同時代のアーティストも子供もお母さんたちも共有出来るような場。そのために、物理的な場所は、シンボルとして絶対必要だと思っています。
あとはコミュニティの作り方を実践したいですね。人口バランスが変わって、核家族化が進んで、都市での暮らしだけではなく、地域の暮らしにおいても、どうやって日常的に人とつながりながら生きていけるかを考えるのが重要だと思っています。そういった時に、文化・芸術は人と人がつながるハブとしてとても有効です。
創作することは、プロセスとしても、何か他人の作ったものを見る時にも、そこから生まれる共感が人と人とをつなげます。それを利用して社会を豊かにすることを実践してみたい、と。
私たちの目指しているアートセンターは子供も大人も先生も受け入れて、外国人でも色んな人を受け入れる形にしたいですね。自分の住んでいる場所や感覚の近しい人だけでなく、色んな人と出会う場所を担保することを実践したいです。
藤原:インクルーシブということだよね。本当に色んな人を巻き込める場所を作るというのは重要。
仲野:実際に場所ができることで、なにかが情報として発信されるだけじゃなくて、具体的な物や何かのメソッドが、その場所までいけない人、例えば私の住む京都の山奥まで届いたらいいなと思います。
この前、村の親子向けクリスマス会に行ったら、イベントとかパフォーマンスの意味合いが街中とは全く違っていたんですね。昔から村にある大人の寄り合いというか、特定の大人にしかわからない状況になっていたんです。たぶん日頃は出て来ない人も多く来ていて、たくさんの人が期待して参加していた会なのに、同じ部屋に居ながらみんなちょっと傍観するしかない感じで、こういうところにも、子供とかお母さんが目を輝かせるようなことづくりが伝わるといいなと思いました。現地と届け合う、というのも、私は出来たらいいなと思っています。
中村:それは具体的な地域の対象が見えた体験だったということですね。
藤原:創造性というのが「絶対値」、「完成度」ではなく、「変化」だとしたら、どんな人だって創造的な実践はできているはずなんですね。
ただ、小さな変化を生み出す創造性を素晴らしいというためにはどうしても拠点が必要なんです。
なぜなら、イベントだどうしても「完成度」が問われる。だけど、場所があれば、創造性についての思想をもっと根源的に発信できる。つまり、場所を持つことによって創造性の思想が社会の中で広がりを持つと思っていて、スクールが次の段階に行くために場所がないとダメだと。
世界的なアーティストの作品が作られている横で、たとえば主婦の人たちが作品をつくる場があり、さらに、アーティストと主婦が刺激しあって、どんどん地域がエンパワーメントされて、面白い事が起きているという状況を作りたいです。
金森:成果物だけではなく、積み上げて行く時間といったものが可視化されるというのは、今までと違うことですよね。
藤原:まちづくりワークショップの起源は振付家であるアンナ・ハルプリンの夫、ローレンス・ハルプリンが、ダンスのワークショップの形式をまちづくりに使えるんじゃないかと思って展開したのが始まりなんですね。
あと、南米のパウロ・フレイレという開放の神学を提唱した人がいて、被差別社会の南米は受動的な精神がへばりついていて、その精神を開放するためにワークショップが起きたんです。
対話がどんな社会をつくるのか。もっと大きなムーブメントをつくり、繋がっていくための準備が必要だなあと。これはDSSをやっているうちに気づいたことでもあります。
一方、DSSで作り上げたネットワークは、DRIFTERS SUMMER SCHOOL ADVANCEで育てようと動いています。今まで作った枠組みを突き放すのではなく、それはきちんと水を上げて育てて、他方で中村さんが言ったリーダーシップをとる役割は、スケールを広げることをやらなければならないと思っています。
金森:2014年はリサーチを重ねたりする期間ですね。
中村:次の5年後はアートセンターという場をつくる第一段階という目標です。
藤原:日本について語っていて、それから世界全体にムーブメントを広げていけたら。
中村:われわれのようなインディペンデントな活動でも出来るモデルケースを作ることが重要ですね。
理想は語るし、出来ることはこれまでもやってきたけど、経営的にも成立させなければならないし、そういうクリエイティブな場作りにおけるビジネス的展望、場の獲得と、それが出来るモデルケースを実証したい、というのが5年の目標です。
藤原:2014年は、次のステージに向けたリサーチと小さな実験の連続。来年・再来年あたりに本質的に激しいことをやると思います。
writer profile
1992年生まれ 後楽園⇔神楽坂他 ドリフターズ・マガジン編集長