山口壮大インタビュー
―山口さんのバックグラウンドを教えてください。
文化服装学院に入学した当初、いきなり担任の先生に、「学年の1%位の確率でしか、スタイリストになれない」といわれました。1学年500人もいるんですよ。どうやったらその1%になれるかなと、考えたんです。でも、考えたところで、答えは出ない。なのでまずは、「どうやったら目立てるか、どれだけ周りと違う格好ができるか」を考え、実践しました。とにかく、めちゃくちゃな格好ばかりするんです。当時、オールスパンコールの帽子があって、それを3つ同時にかぶったりしてました。そうこうしている間に、目論み通りどんどん目立っていったんですけど、ある日、矛盾にぶつかったんです。目立って格好良いはずなのに、全然、モテない。電車に乗るのとかも、恥ずかしくなっていって「目立つけど、もしかして、ダサイんじゃ」と、気づくんです。
ようやく次のステップですよね。「目立って、しかも格好良い」目立つ為に必要なのは、自分の内側にある反骨精神を全面に出せば良い。格好良くある為に必要なのは、自分の外側にある、社会を意識しなければいけない。本来は「逆」かもしれないけど、自分はこういう過程を通して学んでいきました。
自分の意識が、毎日の服装を通して、自己と社会との結びつきに変化していったのとほぼ同時期に、学院での最後のトライアルである、学院長賞を決めるコンペディションがあって、そこで「表現」というものと向き合いました。その時のテーマは「フォーマル」。ほぼ全員スーツを作っている中、自分は別のフォーマルのとらえ方をしたくて、和服と洋服を組み合わせた晴れ着を作り、最終的に賞を頂きました。完成した服は奇抜そのものだったんですけど、真逆の要素である「洋」と「和」をそれぞれどういう考え方で盛り込んだかを主観と客観とを意識しながらしっかりプレゼン出来たからこそ、評価を頂くことが出来たと思っています。自分のアイデンティティを、社会とどう繋いでいくか。学生の時に、身をもって体感出来たのは、良い経験だったと思います。
―卒業後は。
実は、北村道子さんの弟子になりたかったんです。でも北村さんの仕事は、洋服を集める「スタイリング」ではなく、製作をする「衣装」だからと諭されて、服を作るのは苦手だったので、弟子になることをやめました。
ちょうどその頃、下北沢のHAIGHT&ASHBURYの、NORTHというメンズ中心のヴィンテージのお店のスタッフに誘われて、歴史や古いものに関して勉強したいという気持ちもあり、参加しました。服で何かを表現し、伝えることは、スタイリストでもお店でも変わらないと当時から思っていたので、葛藤も抵抗もあまり無かったです。
その後、NORTHがクローズするタイミングでHAIGHTから抜けて、ミキリハッシンを創業しました。創業といっても始めは本当にひどくて、店舗は4畳程度のボロボロの戦前の建物で、置く洋服も10着程度しかなくて、セレクトショップと言って良いものか分からないくらいだったんですけど、ここからすごいことになるって確信だけはずっとあったので、「箔が付く」くらいに考えてました。自分の周りにいた、デザイナーやアーティストの卵たちにも同じことを思っていたので、一緒にストーリーを作っていこうと、当時から利益度外視でとにかく面白いことをお客さんに提案していましたね。
―山口さんはストーリーやルーツということをファッションでも大切にされていると思います。お客さんにも、そういうスタンスを求めますか?
単純にそっちのほうがおもしろいじゃん、という話がしたいだけです。その服が合うか合わないかだけじゃなくて、「この服がさぁ、こんなところにあって、こういう風に使われていて」というのを知っているほうが面白いんじゃないかな、と思っています。でもそのスタンスをお客さんに求めることは、違うと思っています。色んな価値観があって良いと思っているので。店に置く服にしても、ストーリーがあるから置きたいというだけでもなくて、表装がすごく格好いいから置きたい、だけでもない。ようは、バランスです。あと、人柄。人が作るものだからその人がいい人じゃないと、いいものは生み出されない。勿論作り手だけではなくて、提案する僕らも、お客さんも、人が素敵だと、服も輝くと思っています。
―ミキリハッシンをやっているうちにぴゃるこについてもお話が来たんですね。
PARCOからテナント出店しないかとお話を頂いたんです。最初はきっぱりお断りさせて頂きました。でも、何度断わっても、なかなか諦めてもらえない。
そこで、チームラボに関わって頂くなど、無茶な条件を色々提案したんです。そこで諦めてくれるかなと思っていたら、全部条件を飲んで頂いたので、なんと実現してしまいました。
お店の作り方に関しては、かなり悩みましたね。探さないと来られないミキリハッシンは、一度探し出すと長く滞在してくれるお客さんが多いことに対し、ぴゃるこは、探さなくても誰でも来ることが出来る。低い価格帯の、気軽な洋服を扱いたいわけでは無かったので、PARCOという立地に対して、始めはネガティブに捉えていました。
ちょうどその頃、自分たちが提案しているマーケットを見渡した時に、もしかしたらお客さんの分母が増えてないんじゃって疑問が出てきたんです。
結局は分子の奪い合いなんじゃないかなって。じゃあ分母を増やす試みがどうやったら出来るのか。もしかしたらぴゃるこだったらできるかも、と考えました。
自分たちが盛り上がらないと、他も盛り上がらないし、他が盛り上がったら、自分たちも盛り上がりたい。
大義名分じゃないけど、入り口になれたら、と思いました。
―ぴゃるこの見ている未来はどういう未来ですか。
服や物事をひっくるめた「世の中を見るための視点」を提案したいと思っています。こういう見方をしたら面白い、みたいな感じです。その視点や捉え方を分かり易くするために、誰もが知っている「シブヤ」という街を素材に、ブランドに表現して頂いています。例えば、ANREALAGEだったら、スクランブル交差点を上から見た写真に、低解像度プリントを施したセットアップを。カガリユウスケだったら、渋谷の壁をカガリくんの視点で切り取った、転写プリントのカバンを。FACETASMは渋谷の空の夕焼けをダウンマフラーやTシャツに落とし込んでもらっています。普段見慣れているはずの「シブヤ」が、ブランドの目線を通して、こんなにも美しく、かっこよく、生まれ変わる。そして生まれ変わった「シブヤ」を、自分の中にスタイリングで取り込み、また興味を持ってくれた誰かに、自分が取り入れている「視点」を伝えていく。こういう、目に見えているはずなんだけど気付けないファッションの楽しみ方を分かりやすく実践し、伝え合っていこう、と考えるのがぴゃるこなんです。自分なりの視点をもつことは、いずれ美学に繋がります。ちょっと大きいことを言うと、そこから未来が見えてくるんじゃないかなって、思っています。
―スタイリストの仕事とお店の仕事の違いは?
お店もスタイリストも、服で何かを表現し、伝えることなので、僕の中では同じです。お店はまずテナントを構えている場所に対して、接客する販売員と、セレクトするブランドのアイデンティティがどう影響してくるかを考えます。その上で、ラックや什器などの、全体的なディスプレイの見え方がショップの見え方につながるとすると、スタイリングも同じで、たとえば人物がいて、スタイリングするブランドの意味を考える。その上で、トップス、ボトムス、小物などのバランスを俯瞰でみるとスタイリングが伝ってくる。
平たく言うと、スタイリストは、モデルにスタイリングするブランドを通して、自分の考えを写真なり映像なりに落とし込んで伝えていく。ショップは、それが空間になっただけ。究極的な話ですが、お店も擬人化できるような気がしています。思想があるので。
―先日の新宿スタイルコレクションについて、教えてください。
伊勢丹の呉服バイヤーさんから依頼が来たんですが、着物は難しくて、とても大変でした。伊勢丹の呉服を背負うということは、今の呉服界を背負うってことだから、ちゃんと勉強してから崩そうと思いました。その際、改めて文化服装学院の先生に着付けや歴史を学びました。その上で何をやろうかと悩んだんです。コレクションのスタイリングは、帯や着物の前の開け方も全て「これは女性で、これは男性で、これは芸者で…と、フォーマットに乗っ取って崩してあるんです。隠すものと見せるもののバランスを、合わせるブランドごとに細かく変え、現代の粋な男性像を表現しました。着物を全然知らない人もかっこ良かったと言ってくれて、反対に、着物をちゃんと知っている先生にも「粋だった」と言ってもらえました。
今回のような仕事こそ、今の視点をストーリーを利用して組み込み、新しく提案するという点で、今まで培ってきた自分なりのスタイリング術を反映できるかもと思いました。全く新しいものなんて、よほどの技術革新か発見が無い限り、生まれないと思うんです。世界には存在しない、新しいものを無理して求めるよりも、あるがままの世界をまず受け入れて、そこに対して自分なりの見方を考える。視点を変えれば世界は変わるから。価値の傾倒にも繋がりますけど、そういうことがしたいです。
―今後の活動については。
伊勢丹のショーで自分のやりたいことに近づけたと思います。今後についても考えていることはありますが、まだ言えません。 言葉ではなく、形にして示したいです。
(インタビュー写真:宮石悠平)
writer profile
1992年生まれ 後楽園⇔神楽坂他 ドリフターズ・マガジン編集長