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開催終了。

世界の小劇場 〜vol.1 ドイツ編〜 

いまこの瞬間に、世界の劇場は、現代社会に対してどのような問いを、どのような方法で投げかけているのでしょうか。歴史、政治、経済、教育、社会、文化など異なる環境で生活しているアーティストの上演を体験することによって、世界の様相をつぶさに観察するだけではなく、彼らの世界がわたしたちの生活と地続きであるかもしれないという可能性を探求する試みです。このプロジェクトでは、毎回異なる国/都市にフォーカスし、実験的・革新的・国際的なアーティストの発信源となっているような劇場/フェスティバルとタッグを組みます。先進的な拠点とコ・キュレーション(共同企画)していくことによって、横浜と様々な都市がネットワークで結ばれ、日本のアーティストや観客にとって、より発展的な展開が生み出されることを期待しています。

出演カンパニー/作品:
Rimini Protokoll “Black Tie”(リミニ・プロトコル「ブラック・タイ」)
She She Pop “TESTAMENT” (シー・シー・ポップ「遺言/誓約」)
andcompany&Co. “MAUSOLEUM BUFFO”(アンドカンパニー&Co.『道化の霊廟』)

スケジュール:
She She Pop “TESTAMENT”(シー・シー・ポップ「遺言/誓約」)
2011年2月19日(土)19:30開演
2011年2月20日(日)18:00開演 アフタートーク
@神奈川芸術劇場 中スタジオ


Rimini Protokoll “Black Tie”(リミニ・プロトコル「ブラック・タイ」)
2011年2月25日(金)19:30開演
2011年2月26日(土)18:00開演
2011年2月27日(日)15:00開演 アフタートーク
@神奈川芸術劇場大スタジオ


andcompany&Co. “MAUSOLEUM BUFFO” (アンドカンパニー&Co.「道化の霊廟」)
2011年2月26日(土)15:00開演 アフタートーク
2011年2月27日(日)18:00開演
@神奈川芸術劇場中スタジオ


日程:
2011年2月19日(土)〜27日(日)
会場:
神奈川芸術劇場 大/中スタジオ
チケット:

全席自由席、2010年12月18日(土)一般発売
一般2,800円、学生2,000円、当日3,200円
お得な通し券 7,500円【限定30名!】(3作品)
お得な一日券 5,000円【限定50名!】(2作品:26日、27日のみ取り扱い)

☆12月11日(土)チケット先行発売!
チケットを先行予約期間中(11日〜18日)にご予約頂いた方はprecog webshopにて使用できるポイントを10%還元!

【ご予約方法】
プリコグの「メールマガジン」登録者、または「Twitter」のフォロワーにご予約方法をお伝えいたします。プリコグのメールマガジンへの登録はこちら。Twitterのプリコグアカウント(@precogjp)はこちら

クレジット:
※フライヤー記載のアフタートーク日時に間違いがございます。正しくは26日(土)15時からの回になります。お詫びして訂正いたします。 主催:NPO法人 Drifters International、国際舞台芸術ミーティングin 横浜 2011実行委員会
共催:東京ドイツ文化センター
特別協力:ドイツ連邦共和国大使館
助成:文化庁、横浜市先駆的芸術活動助成
協力:Hebbel Am Ufer, HAU, Berlin
制作協力:プリコグ
このイベントのトピック
  • 世界の小劇場 レコメンドコメント掲載 【中野成樹+フランケンズ 中野成樹さん】

    シー・シー・ポップ 『遺言/誓約』

    「そういった感じ」の王道

    しょうがないっすね、なんだろう、もうさ、よくわかんないけど、「そういう感じ」の王道だよね、シー・シー・ポップはね。「そういう感じ」ってのは、なんだろう、やっぱさ、主人公がいて、その人がいろんなトラブルにまきこまれて、この先どうなっちゃうんだろう? みたいな、まあ、いわゆる「お話」みたいのがあって、で、結局最後にどうなるんだろう、っていう、「そういった興味でひっぱる芝居とは違うやつ」ってことなんだけど、だから、いわゆる近代劇じゃない感じの芝居のことをイメージして僕は言ってるんですけど、で、まあ、最近は日本でも、「そういう感じ」の演劇があちこちでやられるようになってきて、あるいは海外の「そういったやつ」が幸いにもいくつか紹介されていて、ありきたりなテレビや映画を観るのとはまったく違う体感を得られることの悦びを得ることができるようになってきて、僕を含めた日本の人々はあらためて「演劇の魅力」を見つめ直しているなあなんてと思っていて、それはとてもよいことだなあなんて思いつつ、シー・シー・ポップは、まあ、そういうやつの中でも、奇をてらってそういうことやってますという感じがまったくせず、もうこれしかねーべ? つーか、こういうことだべ? 演劇って? という“直球感”というか“育ち感”“デフォルト感”を感じての、しょうがないっすね、ということでして。で、さらに、というか、何がすごいって、『TESTAMENT(遺言/誓約)』はそれがまさしく『リア王』の単純な上演でもあるということで。きっと彼女たちにしてみれば、これがもっとも単純で、率直な『リア王』の上演なんでしょうね。本当さ、日本の新劇の人とか、あるいはそれとは画しているとか自覚しつつも原作の紹介をプッシュしてるプロデューサーはこれみて、なんて文句いうんですかね? こんなの『リア王』じゃない? いや、これこそ『リア王』でしょ。今やる意味をもった。日本の小劇場の人間として、世界の小劇場とともに、演劇の魅力をもっともっと掘り進めたい。そう強く思えた一本です。必見。

    中野成樹
  • 世界の小劇場 レコメンドコメント  掲載 【悪魔のしるし 危口統之さん】

    アンドカンパニー&Co.『道化の霊廟』

    andcompany&Co. という名前からして既に水平的だ。なし崩し的と言ってもいいかもしれない。アンド・カンパニー・アンド・カンパニー…以下、放っておけばいくらでも続きそうな。

    集団を立ち上げるにあたり、自分の趣味全開で力みかえった名前をつける連中ばかりのなか(どうせなら自分の好みよりもグーグル検索上位に入るよう気を遣ったほうがいい)、このテキトーさにまず注目させられる。共感を持ってもいい。
    いかに崇高な名前を付けようとも、それが言葉である限り陳腐化は免れえない。形にしたものはそのうち崩れ去る(あるいは誤用され続けることで延命する)。いや、消えてしまうのならまだいい。たいがいは誰からも相手にされず、かといって美しく滅びるでもなく、電車の床面を転がる空き缶のように、生ぬるい不快感を周囲にまき散らしながらころころ転がり続けるだけだ。そして終点で乗客が降りたあと掃除のオジサンが拾って捨てる。「リサイクルごみ」!
    ヴァレリーは「藝術家は、世界の終りの時まで、羨望されたいと願う」と言った。おそらく若干の皮肉も込めて。しかし我々の生きるこの時代、事態は更に深刻かつ戯画的だ。そのような「世界の終り」を夢想できる立ち位置すら奪われているのだから。「世界の終り」を夢想することは、「世界」を自己満足的に我が手に収めることでしかない。仮想的な「世界の終り」から逆算して今を生きる快適さ、というのがかつてはあった、ような気がする。
    チープな被り物や素人同然のジャンクな音楽演奏、ペラッペラの舞台美術や小道具、ここに、貧者が「世界」を考えたときにどうしても現れ出てしまう、ある種の想像力のパターンがある。陳腐化したものを、そのまま陳腐なものとして安っぽく扱うこと、そこに彼らの、andcompany&Co.の倫理が看て取れる。コンビニエンスストアから脱出不可能となった我々(劇場を出よ、なんて呑気なこと言ってる場合じゃない)が追憶する偉大な20世紀、その最新の死骸。
    とか言ってたら大相撲春場所の中止が決まった。悪手だ。許してやれよ。勝負を八百長と八百長以外の2種だけで判断するなよ。そんなことやってたら、もう、ほんとandcompany&co.とか悪魔のしるしみたいなカスばかり、死骸ばかりの世界になってしまうよ。
    危口統之
  • 世界の小劇場 レコメンドコメント掲載 【チェルフィッチュ 岡田利規さん】

    リミニ・プロトコル 「ブラック・タイ」

    芸術が社会への問いとして機能することに照れたり、うさんくささを感じたり、警戒心ばりばりだったり、という全体的な度合いが、わたしたちの社会(の中の芸術やる人)は今よりもう少し低くてもいいというのが僕の意見で、そういったところからリミニ・プロトコルをレコメンしたく思います。
    が、それはそれとして、僕は今、自分たちの新作公演が終わったばかりであることがおそらくは原因で、精神状態がたぶん、ちょっと正常じゃない。苛々している。ところが、僕は何に苛々しているというのか? その苛だちの客観的対象物がないようにも思われ、そういう意味ではハムレット的……、とただいま無理矢理演劇に引きつけた文章にしてみました。
    チェルフィッチュは普通の演劇じゃないから、的な言い方に触れる度に、そこはかとない哀しみを、人知れず覚えております。そういうときにどう受け止めればいいのか、いつも戸惑う。あ、そうですか、どうせそう言われちゃうんなら、別にいいですよ、僕は普通の演劇おもしろいと思わなくってキライですのでそういう言い方はむしろ大歓迎ですよ! なんて言い放ってしまっては、よくないだろう。物事を良き方向に進めて行くには懐柔策をとるほうがいいということは、理解しているつもりなのである。
    「普通の演劇」とおっしゃいますが、みなさん、演劇というのは、とっても自由な表現形式なんです。普通の演劇も、確かにとてもいいですね、でもね、たとえばここにリミニ・プロトコルというドイツの集団がありますが、ぜひ一度彼らの作る演劇を見ていただきたい、そうすると「演劇」というものの概念が更新されて、刺激的な体験だと思いますよ!
    でもさ、リミニ・プロトコルのレコメンを書くなんて、本当はしたくないのだ。だってさ、こうやって自分の苛立ちをフルに発揮することなしにレコメンなんてできないように、僕は今感じてしまっているから。
    しかしともかく最後は、ここまでの黒ずんだ気持ちで書かれた文章を一掃するような、僕のピュアな気持ちにあふれた一文で締めくくりたいと思います。チェルフィッチュも普通の演劇です。そして、リミニ・プロトコルも普通の演劇なんですよ。それは見たら分かると思いますよ。というか、いいことを思いつきました。「普通の」という語句はちょうどフランス語の「H」みたく発音しないというルールで、ということにこれからはしませんか?

    岡田利規